こんにちは。
旧帝大で博士号とって大企業の研究職になったのに、心の違和感から適応障害になり、生き方を変えようともがいている、ただなおです(笑)
前回の記事では僕自身が適応障害になった経緯についてお話ししました。
さらっとおさらいするとこんな感じ。
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無意識にこびりついた「博士卒だからデキル奴でいなくちゃ」という自分の中での常識やプライドに、職場のピリついた雰囲気も重なり
苦手な業務も「怒られないように、認められるように、ちゃんとしなきゃ」と鎧を何重にも重ね着して頑張りつづけた。
その結果、興味のままに面白そうなことにのめりこんじゃう様な本来の自分と、現実の鎧の自分とのギャップに心が耐え切れなくなってしまい
「なんか生きるのがしんどい…これからもずっとこんな毎日が続くとか絶望…」
こんなかんじでどんどん病んでいった…
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カンタンに言えばこんなところです。
>>大企業研究職が適応障害になった経緯と病床で気づいた人生で大切なこと
で、今回の話は、これをもう少し深く掘り下げた話です。
つまり、適応障害みたいに「人生絶望や…」と感じてしまうほどにツラくなってしまう、その根本ってなんなんやろか、ってお話。
私、今回の適応障害に限らず「人生しんどい、生きるのがつらい」って感じる瞬間、ちょくちょくあったんです。とくに大学後半から。
今回の件で、そうしたこれまでの人生の紆余曲折をじっくり振り返る時間ができました。
で、その中で、ふと気づいたのです。
「あれ、オレってしんどくなるときって、毎回同じパターンじゃね?」と。
つまり、私が絶望感を感じた時の自分の行動・思考パターンを整理していくと、たった一つの「生き方のクセ」に集約されたんです。
今回は、そのお話を共有したいと思います。
こんな風に
「上手くやってきたはずなのに人生おもんない、しんどい」
的なモヤモヤ感をいま抱えている人は、今回の記事が何かヒントになるかもしれません。
とくに、今回話す「クセ」は、おそらく、これまでの人生イケイケだった人に多いんじゃないかなと思います。
勉強ができて、いい学校、いい会社に行けて、成果もそれなりに挙げて…的な人。
今回の記事では、私が人生の折に感じていた”生き詰まり感”の原因となっていた「生き方のクセ」について共有したいと思います。
「人生の行き詰まり感」の根本原因
もうさっそく結論を言いましょう。
私が人生の節々で、人生に対する生き苦しさ、不安感、絶望感を感じていた根本的な原因は
過去に執着するクセ
でした。
んー…
分かるような、わからないような…
ってなってますよねきっと。
ま、ひとまず先すすめます。
ここでいう「過去」は大きく3つに分けられるかな思っていまして。
- 1つ目、過去のキャリア
- 2つ目、これまでの人間関係
- 3つ目、染み付いた固定観念
んー、どうでしょうか?
これを聞いて、なんとな~く私が言いたいこと、察している方もいるかもしれませんね。
でも、しっかり言語化したいと思います。一つずつ説明しますね。
過去のキャリアへの執着
過去の実績、成果、肩書き、富、社会的な地位。
それから、これらを手にするまでに積み上げてきた努力とか頑張り、そして我慢も含まれると思っています。
”これまで頑張って積み上げてきたキャリアを無駄にしないこと”
を無意識に優先してしまうが故に、現在や未来の自分の可能性に無意識にブレーキをかけてしまう。
これを「過去のキャリアへの執着」と表現しています。
心の奥底では何か新しい仕事、新しい環境、新しい生き方を望んでいるけど
- 「いや、いまさらそんなことやっても…」
- 「これまでのキャリアを捨てるのはさすがに…」
と頭の中で損得勘定が高速におこり、その内なる思いにフタをして、現実に引き戻される。
”世間的に良い”とされる順調で堅実なキャリアを築くほどに、より強い不自由感を感じることになるのです。
何を隠そう、まさに私がそうでした。思えば、私自身も頑張ってきました。
その最たる例が勉強です。
小1の頃から(習い事、という意味では幼稚園の頃から)塾に通い始めたこともあり、小・中学校の時は、ずっと成績上位でした。
時に遊びたい気持ちや、やりたくない気持ちを我慢して勉強を頑張りました。
そのおかげでいい高校、いい大学に入り、そして博士号まで取得し、そしていい会社に入ることができました。
いえ、別にずっと我慢していたわけじゃなく、楽しいことも多くあったのはたしかですよ。
ただ、「自分は歯を食いしばって努力してきた。だから、それなりの実績を積むことができたんだ」
こんな自負の気持ちを少なからず持っています。おそらく小学校高学年頃から。
だからこそ、人生の節目ではそんな過去の努力や我慢、実績を無駄にしない道を無意識に選択しようとしてきました。
- これくらいの成績だから高校、大学はこれくらいのレベルがいいかな
- 修士課程でこれほどの業績を上げられたんだから、博士課程に進んだ方がいいだろう
- 博士号を取ったんだから 専門性を行かせる研究所に進むべきかな
- 一流企業に就職できたんだからやめるべきじゃないだろう
- いい給料なんだから、続けたほうがいいだろう
「過去の努力、経験を活かせる道に進んだほうがいい」という、なんとなく社会にある風潮に流されていたのもあるでしょう。
ふりかえれば「自分が本当は何がやりたいのか」を意識したことは、ほとんどなかったです。
それよりも、我慢にも似た努力や積み上げてきたキャリアを無駄にしないことを優先することがもはや当たり前の人生だった。
だから、心の奥底ではホントは望んでいる、全くの新しい道だけどやってみたいとワクワクする気持ちを無意識に閉ざし
人生に対する閉そく感や、未来に希望が持てない感覚を感じてしまっていました。
これまでの人間関係への執着
家族からの期待、上司や同僚、学校の先生からの評価や期待、友人や仲間からどう思われているか。
それからコミュニティにおける自分のキャラや立ち位置なども。
これまで関わってきた人たちや現時点で身近にいる人たちから
”自分がどう見えているのか、どう思われるかを意識してしまう”
これによって、自分の生き方を無意識に制限してしまう。
これが「これまでの人間関係への執着」です。
たとえば
- 親にずっとお金をかけてもらっていたからコッチの道を選んだほうがいいだろうな
- 今さら新しいこと始めるなんて、友達にどう思われるか恥ずかしな
- 職場で”デキるキャラ”として頑張ってるけど、ホントはしんどいんだよな
- 異業種への転職なんて、お世話になった恩師や上司に申し訳ない
こんな感じです。
私自身も、ほんまにたくさんの場面で過去の人間関係に囚われていました。
- 勉強、スポーツがそこそこできる優等生キャラだった小学生時代。頼まれた学級委員長を「わかりました(あまりしたくないけど、まぁ周りからは流石と思われるからいっか)」と引き受けたり
- 親や塾の先生からの期待をくみ取り(これまでの努力も無駄にしたくないし)、県下トップの高校を志望したり
- 中学時代の野球クラブ監督からの「○○高校に行った先輩はみんな主将になってるから頑張れ」という言葉で勝手に期待を背負い、高校野球部で主将に立候補したり
- 高校で野球部に入ろうか迷ったときに「小・中でずっと親に野球やらせてもらったんやから、今さら野球以外は残念がるやろな」と考えたり
- 大学院時代の教授や同期、後輩から「凄い」と思われたくて、実験とか論文執筆とか、めちゃ頑張ったり
- 研究だけじゃなくて英語もできればさらに周りからチヤホヤされるだろうから、なんとなくTOEICを勉強したり
- 念願かなって業績がでたついでにプライドも積み上がり、ラボ後輩に「こんなんちょっと考えたら分かるやん」みたいな嫌味な態度とったり
- 会社入社後、かつてのラボ教授からの学会発表依頼。全くやりたくないのに、恩師の期待を裏切り失望されたくないから「ありがとうございます」と受諾したものの、忙しさでめっちゃ後悔したり
- 職場の上司に「博士卒のデキるやつ」と評価してもらいたいから、苦手な業務、相談もできずに一人で抱え込んだり
- 「デキないやつ」と思われたくないプライドから完璧主義になり、仕事が溜まって苦しんだり
- 博士まで出ておいて全く異業種の仕事をはじめたら、かつての恩師や親や上司や会社のメンバーからなんて思われるか気にしたり
- 会社辞めて新しいこと始めて辞める前より稼ぎが悪くなったら現職の同僚や上司に、ばかにされるんだろうなと思ってしまったり。
いや、こんな経験ありすぎるww 正直まだまだありますが…(笑)
このような日々のちょっとした言動から、進路選択・就職活動などの大きめの選択をする時まで、あらゆるフェーズにおいて
誰かからの評価や期待を勝手に妄想し、勝手に自分をしばり、そしてなんか生き苦しくなるという…
自ら自分の首を絞めているんですよね。
冷静に見れば、自作自演の苦しみ。なんと滑稽なことか。笑えてきます。笑ってください。
でも、でも。
自分で首を絞めているとわかった今でもなお、新しい道に踏みだそうと考えると、色んな人の顔が浮かんで躊躇してしまうんです。
この「過去の人間関係」という名の鎖はそれほど強固なモノなんですよね、私にとって。
染みついた固定観念
いわゆる一般常識(と呼ばれるもの)です。
「ふつうはこうやろ」とか「一般的にこうすべきやろ」と言ってしまいがちなこと。
- 「嫌なことでも努力することに意味がある」
- 「一流企業に勤められれば安泰」
- 「仕事には我慢も必要」
- 「真面目にコツコツ働くのがエライ」
- 「お金はあったほうがいい」
- 「結婚するなら結婚式あげるべき」
- 「仕事をして社会に出てこそ一人前」
- 「いい大人は車、家を持つべき」
- 「子供にはお金をかけるべき」
- 「スキルアップに励むべき。ダラダラは悪」
- 「効率的に仕事できる人のほうがえらい」
みたいなやつです。無限にありますよね。
親、家族、友人、先生、上司、同僚。本やテレビ、XやInstagramやYouTubeなどのSNS。その他、不特定多数。
これまでの人生で、いろんな人、モノ、情報に触れる中で作り上げられた、自分が”一般常識”と思っていること。固定観念。
この固定観念も、知らず知らずのうちに、人生のいたる場面で自分を苦しめていた原因でした。
- 中学時代の野球クラブ。監督が怖くて、つらくてホントはやめたかった。でも「努力は無駄にならない」「苦しくてもにげちゃダメ」みたいな誰かの名言を勝手に信じて、かたくなに辞めなかった。いや、辞める勇気がなかった。自分の中の「逃げ=負け」という常識に縛られていたんです。
- 大学院時代。周り大多数と同じように修士卒で就職するか、少数派の博士課程の道に進学するか。心底ではこの楽しい研究をもっと続けたい。でもお金やその後のキャリアなど、よく耳にする博士へのネガティブな意見に捉われ、最後の最後まで決断できず、苦しかった。自分の気持ちより世間の声を優先しようとする自分と、それに必死にあらがうピュアな自分の葛藤に涙しました。
- 志望通りの一流企業に入社し、希望通りの研究部署配属だったのに。「もっと深めたい」純粋な好奇心よりも「成果につながるか」が重視される暗黙の雰囲気にモヤモヤ。上司にも「それは趣味だよねw 企業はビジネスだから我慢も必要だよ」と半笑いで言われた。違和感を感じつつも「やっぱそうなんだ、企業の研究って」と一度は割り切ろうしたけど…心底では割り切れていなかった。「楽しい!面白そう!」と思えることに没頭したい自分を、「いやいや趣味じゃないんだからさ」と常識らしき意見で説き伏せるもう一人の自分。その葛藤に、ついに心と体のバランスを崩してしまいました。
最近、「常識ってのは、社会や大人によって植え付けられている側面もあるけど、結局、自分がつくり上げているんですよね」的な、とある本の一節をみて、ハッとさせられたんです。
ホンマに、そうやわ。と。
色んな情報を見聞きした自分が「それがふつうなんだ」と決めて、その情報を信じることにしたんですよね。
自分が勝手に信じこんでいる。
「仕事には我慢も必要、辞めたら家族を養えないぞ」って色んな人が言ってたのを、自分が「そうだ」と勝手に信じただけやわ。
ホントは何を信じてもいいはず。
「仕事は楽しいだけでやっていける」「辞めようが辞めまいが家族で笑って生きていける」
そう信じてもいいんです。
でもね。
やっぱ長年生きてきた中でずーっと信じてきたことだから、そうカンタンにはひっくりかえせないし、自分の言動が固定観念に縛られたものって気づくことすら難しいんですよね。
それが自分にとっては当たり前だから。
だから、私は今でも「会社辞めて個人でやっていくのは不安定で家族が苦しむかも」って固定観念に不安が煽られます。
ホントは「個人でやっていくのはめっちゃ自由で家族時間も増えてもうサイコーだ!」って信じてもいいのにね。
なかなかに難しいんですよね。固定観念を塗り替えるってのは。
結局のところ、私が適応障害になった理由ってのは…
自分の固定観念が
自分が妄想した誰かの評価が
誰かの期待が
そして、これまで築いたキャリアが
「働くってしんどいこと」
「会社は厳しい戦いの場所」
「苦手は甘えず自分で克服すべき」
「やりたくないことも、やれば成長につながる」
「肩書きに恥じぬようちゃんとやるべき」
「周りに認められるべき」
「これまでの努力を無駄にしないような仕事をするべき」
「デキる奴じゃないと怒られる」
「弱みを見せたら馬鹿にされる」
こんな呪いを自分にかけて、それを耐えしのぐために鎧を何枚も重ね着して。
本当の自分を何重もの鎧でがちがちに抑えてふるまい続けて。
で、そうするうちに、本当の自分が「・・・いやもうムリいー」って。適応障害になったってわけ。
ね?
結局ぜーんぶ「過去への執着」が原因だったわけです。
じゃあ、どうすればいいのか
これまでの人生で何度かあった、そこそこのどん底レベルでツラかった時ってのは、あらゆる「過去への執着」が積み重なり、その重みに本来の自分が耐えられなくなったからだったんですね。
で。じゃあそれが分かった今、これからはどうしたらいいんだろうかって話です。
過去への囚われによって味わってしまう、絶望感、行き詰まり感、モヤモヤ感。
これらを繰り返さないようにするためには、どうしたらいいのだろうか。
割と時間かけて考えたんやけど、最終的にたどり着いた現時点での私なりの答えは意外とシンプルです。
それは
これまでと逆のことをしたらいいんじゃなかろうか
です。
これまでの逆。
つまり、これまでが「過去」に執着して苦しんできたのならば、これからは「未来」に執着すればいいんじゃなかろうか、ってことです。
「未来に執着する」ってなんだ?
ちょっと話が横に逸れますが、ここで英語のお話を。
未来形の「will」ってあるじゃないですか。
willって単に未来時制を示す飾りではなくて、実は「自分は(未来に)~したいんだ」という発話者の意思が強く込められたニュアンスだそう。
実際、名詞としてのwillの意味は「意志」です。
一方、もう一つの未来形「be going to」は、どちらかというと「前からそうやると決まっている」的なニュアンスなんだとか。
I will study abroad from next month.
は「よしゃ、来月から海外留学いったるでぇ」で、
I’m going to study abroad from next month.
は「来月から海外留学いくことになってんねん」的な。
willを使うときは「オレはこうしたいんだ!」と、より強い意志を持っているんです。
話を戻して。
私がいう「未来に執着する」は「『will』的に生きようぜ」ってことです(伝わります?笑)
もうちょっとかみ砕きますと…
これまでの生き方は「過去がこうだったから、未来はこうしよう」でした。
でもそうじゃなくて。
未来に自分が何をしたいのか、どう生きたいのか、どうありたいのか。
これがまず先にあって、その未来意思を軸に、じゃあ今どうするかを考えよう、ってかんじです。
今の言動が”過去の呪い”に縛られません。
つまり、これまでの生き方は「未来が過去の延長線上にあって、”今”は、その過去と未来をつなぐ直線上にある点」って感じやったけど
これからは「過去とは何ら関係ない未来を決めて、そこに繋がる”今”という点を新たに打ち込む」生き方をしていけばいいんじゃなかろうか
…って思っています。
I’m going to move for my job.
じゃなくて
I will move for my job.
(会社の指令だから~、じゃなくて、おもろいことやりたいから引っ越す!)
I’m going to go to McDonalds with my friends.
じゃなくて
I will go to McDonalds with my friends.
(友達と約束したから~、じゃなくて、ダチとビックマック食いたいから行く!)
自分の言葉に『will』をつける生き方。
言い換えるなら、外側に依存した生き方、じゃなくて、自分の意志にこだわる生き方。
それが素直にかっこいいと思える。
そう生きられたら、これまでの過去に縛られた生き方、自分で自分の首を絞める生き方から脱することができるんじゃないでしょうかね。
で、だからこそ、そう生きるには、前回記事で書いたように「自己理解」が重要になってくるのだと思います。
>>大企業研究職が適応障害になった経緯と病床で気づいた人生で大切なこと
まとめ|言うは易く、行うは難し
今回の記事は、それなりにいい大学を出て、いい企業にはいったのに、人生行き詰まり感を覚えたこれまでの生き方から得たこと…
人生のどん詰まり感は「過去に執着してしまうクセ」が原因やわ、という個人的気づきを共有させてもらいました。
さらには、それをふまえて、これからは「未来に執着します~」と勝手に個人的宣言をさせてもらいました。
私自身の未来の点は、最近の記事にてすでに言語化しています。
>>【研究職が生き方を再考する④完結編】本当にやりたいことを決める
あとはもうほんと、そこに向けて踏み出すだけ。その未来につながる”今”という点を新たに打ち込むだけ。
…とはいえですね。
やっぱ簡単に人はすぐ変われないですね。もうしょっちゅう、過去に縛ろうとするささやきに揺り戻されます。
「ほんまにこれまでのキャリア捨てるん?」とか
「お金やばいんちゃうの?」とか
「家族が路頭に迷ったらどうすん?」とか
「恩師に合わせる顔ないで?」とかとか…
いや~、言うは易く行うは難し、ですねぇ。
今は、そのたびに揺り戻されていることを自覚し、いやいや「どう生きたいんやった?」と都度自分に問い直し、新しい「will型思考」を定着させようと努めています。
現時点ではまだまだうす~い”今”という点を、すこ~しずつすこ~しずつ濃く塗りつぶしていきます(笑)
今回は以上です。この記事で、同じように悩める読者さんに何らかの気づきを与えられたら嬉しいです。
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