前回記事の続きからです。
>>いい大学、企業に入った末にうつになって思うこと|悩みと選択の話①
どうぞ。
「コントロールできる」という思い込み
ここでもうひとつ、「Aかな、Bかな」という悩みについて、思うことがあります。
それは、「悩むっていう行為が人生を自分でコントロールできる」という幻想を前提としているよな、ということです。
これまで自分の人生は自分の行動や努力でいいと思える方向にコントロールできるものだと思い込んでいましたが、
うつになってから、なんかそれ自体が本当は違うんじゃないか、と思うようになってきました。
よく考えれば、僕が今の会社に入ったのは、自分の意思というより、「偶然の連なりの結果」でした。
大学で配属された研究室がその企業の研究分野に近かったから。
その分野に興味を持ったのは、たまたま大学の授業で体験したから。
その授業があったのは、たまたま担当教員がその内容を扱っていたから。
さらに遡れば、僕がその大学を目指したのも、オープンキャンパスでなんとなく惹かれたから。
その大学に合格できたのも、塾で勉強したから。
そもそも、難関大学を目指そうとしたのは、成長するなかで、大人や社会から「できる限り偏差値の高い大学へ行くべき」という価値観を教えてもらったから。
塾に通えたのも、親が費用を出してくれたから。
その親の収入源があったのは…と、キリがありません。
「自分が意識的にAという行動をした」のは、「Aを選択するような流れになっていた」と思うのです。
つまり、どんな選択や行動にも、「自分の意思」ではない外側の影響が必ずある。
というか、自分の意思と思っているものは、自分が育ってきた環境で形成された価値観や基準をもとにしている。
だから、極端なはなしをすれば、心のないAIでも、僕の人生でこれまで関わった人やメディアや情報など、まったく同じ環境(データ履歴)を与えれば)、今、自分の意志で選びとったと信じている選択は、僕とAIでまったく同じになると思う。
今あなたがこの文章を読んでいるのも、「読みたい」と思ったから自分の意志で「記事をクリックした」のかもしれませんが、
それは何かのきっかけがあったからでしょうし、そもそもそうなるにいたった感情や思考は、これまで育ってきた環境だからこそのものでしょう?
じゃないと、こんなマイナーなブログのマイナーな記事にはたどりづけません(笑)
そもそも僕がこの記事を書いていなければ、この体験は存在していなかった。
そう考えると、やっぱり人生はコントロールできるものではなく、「流れの中で起きたことを、後から意味づけしている」だけなのかもしれません。
「悩む」ことの構造
こうして考えていくと、「AかBかで悩む」ことの構造がなんとなく見えてきました。
- 原理的にコントロールできない人生なのに
- 「今ここで正解を引けば、より良い結果を引きよせられる(コントロールできる)」と期待し
- 「あれが良いかも、でもこっちかも」と考え、苦しむ
- でも、そもそもその「良い悪い」の判断基準すらも、これまで生きてきたなかで自分が見聞き理解した、狭い視野でつくられた価値観がもとになってる
- その判断基準が未来永劫変わることがないと無意識に信じている
- でも、そうとはしらず、時に「あのときあっちを選んでいれば…」と後悔することもある
僕たちは、そんな構造の中で「悩み」という行為をしているのかもしれません。
人生の引力
少し話が逸れるけれど。人生には、大なり小なりいくつもの選択肢がありますよね。
ときには、自分を苦しめるとわかっていながら、しがらみの中でそちらを選んでしまうことさえある。
色んな企業、色んな勤め先、働き方があって、苦しければ転職するなりいろんな方法があることはわかっているけど、その職場にとどまる選択をしてしまう、とか。
そうして僕たちは、喜びや怒り、悲しみや楽しさを感じながら、そのときどきの選択を積み重ねて生きている。
そしてその選択の積み重ねが、「自分の生き方」や「仕事」「暮らし」のかたちとなるわけだけど、
どうにもその選択には、ある力が働いているように思うんです。
それは…
また話が長引きそうなので、次の記事で。
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