今日は昨日の記事:「簡単なことを聞くのが申し訳ない」が仕事のストレスの主原因かもしれないの続きです。
職場で感じた「聞きづらさ」の正体
昨日は、「職場で簡単なことを聞きづらい感覚」が自分にとっての職場での大きなストレス要因であると気づき、
さらに、その心理の裏には「頼ること=相手の時間を奪うこと=ダメなこと」という思い込みがあったことをお話しました。
一見すると「気軽に質問しづらい職場の雰囲気」が原因に思えて、実は、自分の内側に原因があったのだと気づいたのです。
そして、過去を振り返ると、この固定観念が人に向くと「ちゃんとしろよ」というイラつきになり、
自分に向くと「ちゃんとしなければいけない」という呪いのような苦しさを生み出していた、
というところまで、昨日の時点で言葉にできていました。
今日は、さらにその後、大きな気づきがあったのでシェアさせてください。
イラつきの裏には、自分の本心が隠れていた
それは、今回発見したストレスを感じる構造が、以前の記事で書いた、「他人へのイラつきは、内なる自分の投影である」という構造と全く同じだった、ということです。
その記事でも紹介した、「他人の言動にイラつくのは、それが実は自分が本当に望んでいる姿だからだ」という原理構図はこんな風になっています👇

その記事に書いた僕なりの洞察に照らすと…
僕は「相手の時間を奪ってはいけない」という固定観念によって、
「人に聞く前に、まずは自分でちゃんと解決する努力をしなきゃ」と無意識に頑張っていたのです(図の②の状態)。
でも本心では「さっさと人に頼ってラクしたい」「怠けたい」「やりたいことだけやりたい」と思っている(図の①)。
ところが「そんなわがままはダメだ」という思い込みで自分のケツを叩き続けていた(図の②)。
だからこそ、誰かがしょうもない質問をしてきたときに「いや、ちゃんとしろよ」とイラっとしていたのです(図の③)。
だって自分は我慢して、苦労して、必死でちゃんとしているのに……と。
一方で、仕事が忙しくなり「猫の手も借りたい」と思うほどの状況になると、この固定観念は自分に牙をむきました。
「今すぐ頼りたいけど、そうしたら『まずは自分でやれよ』と思われるよな」と感じてしまうのです。
結局、なかなか人に頼れず、時間に追われて苦しくなる。
仮に頼ったとしても、その前に大きな心的ストレスを抱えてしまうので、どちらにしてもつらい状況になりがちでした(図の④)。
実際、僕がメンタルダウンしたのも、この固定観念が自分に向いて、自分で自分の首を絞め続けた結果でした。
結局のところ「ラクしている人にイラっとする」のも、「ラクせず頑張った末に苦しくなる」のも、
根っこで「本当はラクに、わがままに、ちゃんとしないで生きたい」という本心があるからこそなんです(図の⑤)。
“ラクしたい気持ち”を押さえつけるマイルール
でも、これまでの人生経験の中で刷り込まれた「わがままな素顔を出すのは悪いことだ」という常識(マイルール)が、本心を抑えつけていたんですね。
まるで遊びたい子どもを、親が無理やり勉強させているような状態でした。
僕の中には「純真無垢に生きたい子ども(本心)」と、「社会で生きられるように気を遣う親(マイルール)」の二人が同居していたのでしょう。
大学院時代は耐えられたのに社会人になって破綻した理由
要するに僕はこれまで、本心では「さっさと人に聞いてラクしたい」と思っていながらも、
マイルールによって自分を律することが正しいことだと、”ちゃんと頑張る人間の仮面”をつけて生きてきました。
そして、とくに大学院で研究をしていた時代(ほぼ仕事といってもいい日々)、このやり方でなんとかやってこられたのは、
自力で解決するだけの時間的余裕があったこと、また、関わる人間関係が少なかったことが大きかったのだと思います。
たまに人に依頼するときはストレスでしたが、その頻度が少なかったので耐えられていました。
しかし社会人になってからは一変します。
やるべき仕事は増え、人との関わりも格段に多くなりました。
すると、「聞かざるを得ない状況」が圧倒的に増えたのです。
そこで初めて、僕は「人に頼ること自体に強い心的ストレスを感じる」という自分の特性を思い知らされました。
そしてメンタルダウンという”人生の痛み”を経て、ようやく、
「問題の原因は、無意識に信じ込んでいたマイルールで、ラクをしたい本心を押さえつけていたからだわ」
と気づけたのです。
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