前回記事の続きからです。
>>いい大学、企業に入った末にうつになって思うこと|悩みと選択の話①
>>いい大学、企業に入った末にうつになって思うこと|悩みと選択の話②
どうぞ。
人生の引力
少し話が逸れるけれど。人生には、大なり小なりいくつもの選択肢がありますよね。
ときには、自分を苦しめるとわかっていながら、しがらみの中でそちらを選んでしまうことさえある。
色んな企業、色んな勤め先、働き方があって、苦しければ転職するなりいろんな方法があることはわかっているけど、その職場にとどまる選択をしてしまう、とか。
そうして僕たちは、喜びや怒り、悲しみや楽しさを感じながら、そのときどきの選択を積み重ねて生きている。
そしてその選択の積み重ねが、「自分の生き方」や「仕事」「暮らし」のかたちとなるわけだけど、
どうにもその選択には、“心の奥底の声”というか”心底の願い”による引力が働いているように思うんです。
たとえば、僕がうつになる前のこと。
大学院時代の研究や、会社での仕事において、僕は「成果」や「称賛」、あるいは「他者からの評価」を追い求めていた。
まぁもちろんそれだけではないけども、多くの場面で、それらを手に入れるための選択を重ねていた。
無理をして残業したり、気乗りしない業務にも我慢して取り組んだり。
そういう選択を、当たり前のように繰り返していた。
でも、それは本来の自分が願う生き方からは逸れていく選択だったように思うんです。もちろん当の自分は、そうとは知りません。
ただその頃、胸の奥にずっとあったモヤモヤ感は、道を外れつつある僕を、“本心が望む道”に引き戻そうとする、かすかな引力だったのかもしれない。
けれど、その引力はあまりにも小さく、「評価」や「成果」といった強力な外側の力には抗えなかった。
僕はどんどん、本来の自分から離れていった。距離が広がれば広がるほど、そのズレを修正しようとする力も大きくなる。
まるで、引き伸ばされたバネが元に戻ろうとするように。
そして限界を超えたとき、その引力が一気に解放された、うつというかたちで現れたんだと思います。
この病気をきっかけに、僕は自分の価値観を見直さざるをえなくなった。
うつは、それまで大きく逸れていた僕を、本来の自分に引き戻そうとするサインだったのではないかと思うようになりました。
ここから先は、あくまで僕なりの仮説なんですけど、
この「人生の引力」とでも呼べるようなものは、おそらく誰にでもあてはまるんじゃないかと思う。
日々の選択をどうするべきか
人それぞれ、“本心が願う人生の本流”は違う。
でも、多くの人が、その本流に気づいていようといまいと、ふとした拍子にそこから外れて苦しくなったり、あるいは、思いがけないきっかけで自然と本流に戻っていたり、気づかず本流にのっかりとてつもなく充実した日々を過ごしたり。
人は、そんなふうに、本流とその周辺を行き来しながら生きているのではないかと思うのです。
そして、ここまでの「悩む」ということに関する話と重ね合わせてみると…
この記事の前半で、
【僕たちは、そもそも原理的にコントロールできない人生に対して、「ここで正解のカードを引けば、自分の人生は良い方向に進めるはずだ」と期待し、その「良し悪し」を、自分の狭い視野や価値観で判断してしまいがち。だから、「あれが正解だったんじゃないか」「こっちにすればよかった」と迷い、悩み、後悔する】
と、まるで人生に悩むこと自体が、不毛で意味のない行為のような言い草で書いてしまいましたけど、それがメインの主張ではなくてですね…
人生は、無数の選択の積み重ねだ。目の前の出来事も、それによって生まれた感情も、今の自分自身も、すべてはこれまでの選択の連続から生まれている。
その選択で僕らは、不安になったりして悩むんですけど、その選択をどうするべきか、ということをこの「人生の引力説」に沿って考えると、なんとなく答えのようなものが見えてくる気がするんです。
それはきっと、「自分の本流に戻っていこうとすること」なんじゃないかな、というのが今のところの結論(仮説)です。
よく、死ぬ直前の後悔を聞けば、多くの人が
「人の目を気にせずやりたいことをやればよかった」
とか
「仕事ばかりじゃなくて、家族との時間をもっと大切にすればよかった」
って言う、ってのあると思うけど、これって死ぬ直前になって、自分の心が望んでいた本流の道があったことに気づいて
その道にもっと沿って生きればよかった、って言ってると捉えられるんじゃないかな。
いや、本当はもっと前から本流があることに気づいてたけど、
色んなしがらみや不安を感じて、その心の願いという引力に抗い、生きてきたっていう人の方が多いのかも知れない。
で、もちろん、「本流に戻る」といっても、その本流とは何なのか、どうやって見つければいいのか、ということなんですが、
今のところの僕なりの見解では、「心からの心地よさ」や「ワクワク感」を感じられる方向を選ぶことが、そのヒントになるのではと思っています。
ただ、どうせ、その選択の先でもまたいつか「最悪」と思えるようなことおきるでしょう。
でもその時に、【そのときどきの良し悪しの判断が、自分の限られた経験や狭い視野で組み立てられたものだ】という前提に立ち、
それでもなお、少しでも【“心地よさ”や“ワクワク”を感じるほうへと、選択をアップデートしていく】
それでいいんじゃないかなって。
たとえどれだけ本流から外れても、いつかまた、何かしらのサインに気づくことができる。そのときに、「本流に戻るか」「あえて外れてみるか」を、また選び直せばいいだけの話だと思う。
ぐちゃぐちゃ頭に思うことを書き連ねただけの文章、ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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