いい大学、企業に入った末にうつになって思うこと|悩みと選択の話①

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メンタリティ

こんにちは。今回はタイトルに関して、今の僕がなんとなく思うことをただただ書き連ねていっただけの記事です。

読んで何かが得られる保証はありません(笑)

では、どうぞw

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大学院を修了して、ホワイト企業に入って、その結果、うつ状態を経験をした僕は、最近よくこれからどうしようかと悩みます。

興味を持ち始めた全く新しい道にすすもうかな、

でもそっちは経済的に不安定になるだろうから、やっぱり会社勤めがいいかな、

でも、それもまたしんどくなるんだろうな…

あぁ、どうしたらいいんだろうか…と。

ただ、最近、自分の中に湧いてきた疑問があります。

「今、僕が悩んでいる『Aかな、それともBかな』って、実は意味のないことなんじゃないか?」

狭い視野で「正解」を探す無意味さ

なぜそう感じるかといえば

それは、今の自分が迷っているその「判断軸」自体が、これまでの人生で身につけてきた、とてもとても限られた価値観や情報に基づいてできているからだと思うからです。

たとえば僕は、「いい大学に行って、いい企業に入れば幸せになれる」という思い込みを、どこかに持っていました。

だからこそ、いい成績をとろうと必死に勉強して、難関大学に進み、博士号まで取得し、いわゆるホワイト企業に就職しました。

でも、うつ病になりました。

中学・高校の頃は、「勉強」というわかりやすい評価軸があったから、それに従って「いい点数」を目指していました。

大学院に進学するときも、「専門性」「キャリア」「安定」「給料」など、理系あるあるの“合理的な軸”で散々悩み、最終的には「これがベストだろう」と自分なりに思える選択をしました。

でも、うつになったんです。

狭い視野では、正解なんて見つけようがない

そのときどきで、僕は一応ちゃんと調べました。人に相談もしました。

でも、どれだけ考えたところで、その判断は結局、「自分が知っている範囲」「その時点で大事だと思っていた価値観」によって決まっていた。

つまり、めちゃくちゃ狭い視野の中で選択していたように思うんです。

人は生きていく中で、新しい価値観や情報に触れながら、自分の「ものの見方」は少しずつアップデートされていきます。

そう考えれば、過去の自分の基準では想像もできなかった「不幸」や「違和感」に出会うことは、むしろ当然のことだと思うのです。

それに、逆のこともある。かつて「最悪」と思っていたことが、何年後かには「あれがあったから今がある」と言える出来事に変わることだってある。

すこし話は逸れますが、僕は自分の研究分野で光とか、原子レベルのモノを扱うのだけど、

人間が感じられる光(可視光)ってすんごい小さな範囲しかなくて、よく聞く赤外線とか紫外線なんかは目ではほとんど感知できない。

それに目の前のモノって原子から成ってるけど、当然そんな小さなものは見えない。

でも、人間が感知できないだけで、あるものはあるわけ。

僕は先人たちが積み上げた科学研究のおかげで知っているだけ。

昔の人は想像もできない。なぜなら見えないし、感じられない。体感できないものなんだから、想像のしようもない。

人生を生きる僕もしょせん、波長を知らない昔の人と大して変わらないんじゃないかなと思ってきました。

僕が感知できる世界なんてそれくらい狭い。

今の自分の選択が将来的に「良い」のか「悪い」かなんて、想像してもほとんど当たらない。なぜなら、世の中には自分がまだ知らないこと、感じられないことのほうが多いから。

つまり、「今この瞬間に、自分の狭い視野で判断しようとすること」には、そもそも意味ってあんのかな?と。

「心地よさ」とか「ワクワク」は、どこにあった?

僕が学生だったころ、進路を決めるときに「心地よさ」や「ワクワク感」を判断軸にするなんて、考えもしませんでした。

そんな感覚は、社会人になって働き始めて、モヤモヤし始めたときにはじめて意識するようになった。

うつになってはじめて、「ああ、自分にとっては心地よさ、穏やかさ、ワクワク感みたいなものがとてつもなく大事だったんだ」と、確信に変わっていきました。

「コントロールできる」という思い込み

ここでもうひとつ、「Aかな、Bかな」という悩みについて、思うことがあります。

…が、話が長くなりそうなので、続きは次の記事で書こうと思います。

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