「嫌いなあの人にイラつく気持ちは、実は自分の投影」とか
「誰かにムカつくっていうのは、実はその言動を自分が望んでいるから」とか
って、よく聞きません?
僕は仕事でメンタルダウンしてから心理学系の人間関係の本を読んで、よくこんな一節を目にしました。
でもなんかわかったようで、よくわからない。
「なんであの上司はいつも嫌味ないい方をするのだろうか、モヤモヤするわぁ」
→それは実は自分も、”人に嫌味を言いたい”と思っているから。
「なんでアイツ、仕事を人に任せといて、定時ピッタリに帰るんだよ!神経疑うわ」
→それは実は自分が、”仕事でラクして稼ぎたい”と思っているから。
たとえば、こんなことを言われても、
「…いや、さすがに嫌味なんか言う人になりたくないし、
ラクして稼ぎたいなんて、むしろ『甘いこと言うな』とすら思うけど」
という感じで、いまいち「?」でした。
でも最近、職場への復職に際して、心屋仁之助さんの本に書いてあったこと、
「嫌いなあの人の言動を真似してみる」
を実践してみたのですが…
>>【嫌いな人の真似をせよ】心屋さんの指令を試した結果が想像以上だった話
これによって、その意味が、完全に理解できました。
なので、この記事では、心理学の本などでよく目にする
「他人の言動に嫌悪感を抱く」=「実は自分が望んでいること」
というお話について、僕の理解をシェアさせていただきたいと思います。
他人にイラつくって、どういうことか
冒頭で例として挙げた
「なんであの上司はいつも嫌味ないい方をするのだろうか、モヤモヤするわぁ」
から考えていきましょう。
このイラつきって、つまりは
「あの上司が”ちゃんと”してないからイラついている」状態ですよね。
周りに”ちゃんと気を遣わない”、周りの気持ちを考えようと”頑張っていない”。
だからむかつく。
こんなかんじでしょう👇

なんで”③”なのかは、こうなる前の状態と、後の状態があるからです。後で話します。
もうひとつの例についても
「なんでアイツ、仕事を人に任せといて、定時ピッタリに帰るんだよ!神経疑うわ」
っていうのも、頑張っていないアイツに対して”もっとちゃんと頑張れよ”とイラついていますね。
じゃあ、なんで上司やアイツに”ちゃんとやれ”と思ってしまうのか
それは、自分はちゃんと頑張っているから、じゃないですかね?
しかも、その頑張りには、我慢もおおいに含まれているはずです。
「自分は我慢して”ちゃんと”働いているのに…」
「自分は”ちゃんと”相手に気を遣ってモノを言うのに…」
そういう思いが心のどこかにあるから、ちゃんとやっていない相手を見てイラつきを感じてしまうのです。
じゃあ、なんで、”ちゃんとしなきゃ”って思うんでしょうか
冷静に考えて、別に仕事でラクしてもいいはずだし、別に人に嫌味を言ってもいいわけです。
それがダメなんてルールはありません。
なのに、なんで?
それは、自分の中に
ちゃんとしていない状態は悪だ、
という思いがあるからじゃないですか?
- 仕事でラクをしてはいけない
- 職場でダラダラしたらいけない
- 他人に仕事をお願いしたら、その人より早く帰ってはいけない
- 人に嫌味を言ってはいけない
- 相手の気持ちを考えて発言しないといけない
なぜなら、それは、
- 仕事でラクをする=悪
- 職場でダラダラする=悪
- 他人に仕事をお願いして早く帰る=悪
- 人に嫌味を言う=悪
- 相手の気持ちを考えない=悪
という方程式が自分の中にあるからです。
「いや、まっとうなことしか言ってなくない?」
と思いますか?
うん、たしかに僕もかつてはそう思っていました。
でも、よくよく考えてください。
例えば…
学生の時、いかにラクして稼げるバイトをするか、めっちゃググりませんでした?
人の嫌味を言い散らかすインフルエンサーを見てスカッとしたことないですか?
少数派でも自分の意見を曲げずに主張する人をカッコいいと思ったことはないですか?
だれしも、
怠けたい、さぼりたい、ラクしたい、のんびりしたい、
自分の思ったことをそのまま言いたい、
もっと素を出したい、わがままに生きたい、
そんな思いが心の底にはあるはずなんです。
でも、身の回りの大人や社会によって、「それは悪だ」と言われ続けてきたから、
気づけば、
「わがままな素顔をだすのはダメなことだ。そして、”ちゃんと”頑張ることが正しいんだ」
と、思い込むようになった。
つまり、
①本音では”アレしたい、これイヤ”とわがままに生きたいと願っている
だけど、それはダメなこと、悪なこと、罪なことだから、
②そんなわがままな素顔は隠して”ちゃんとやらなきゃ”と頑張っている
わけですよね。自分のホンネを押し殺し、我慢して、頑張っている状態。
図にすると👇のようになります。

だからこそ、③”ちゃんと”せずに、素顔をさらけだして、わがままにふるまっている人にイラつくんですよね。
ここまでが、「他人にイラつく理由」に関する僕の理解です。
そして、ここからまだ続きがあります。
”ちゃんとしなきゃ”は自分にも向く
この”ちゃんとやれ”が人に向くとイラつきなのですが、
これが自分に向いた場合、”ちゃんとしていない”自分を厳しく律する行為につながります。
自分の”ケツをたたく”ってやつですね。
たとえば、
今日の飲み会の予定、ホントは疲れているから休みたいけど、相手に悪いから参加したり、
ホントはゴロゴロしたいのに、なんか時間を無駄にしてはいけない気がして無理やり勉強をやってみたり。
一日ゴロゴロしてしまった日ひには、「俺はダメな奴」と自己否定感に陥ります。
あるいは、”自己犠牲”という感覚になることもあるかもしれません。
ホントは今日は家事をパートナーにやってほしいのに、どうせやらないだろうなと、自分がやったり。
これらは、自分のホンネを無視したケツたたき的な、持続可能じゃないふるまいなので、
いつか「もう、しんどい…」と限界が来ます。
自己犠牲感MAXで、「もういやーー」と爆発したりすることも。
これを図にすると👇の④”ちゃんとしなきゃ…でも限界”という状態です。
僕は、仕事でメンタルダウンしたときはまさにこの状態でした。

嫌いな人の真似をして気づいたこと
で、僕はこの④の状態になったことで、自分の人生を振り返らざるをえなくなり、そして、
冒頭で書いた通り、心屋仁之助さんの指令
「嫌いなあの人の言動を真似してみる」
を通じて、自分がメンタルダウンした構造がこの①~④のようになっていることを理解しました。
そして同時に、
他人へのイラつきは、自分の願望であり
”ちゃんとしなきゃ”の裏にある思い=自分の願望であることに気づき、
「あ、オレはこれまで『デキる奴で、イイ奴』になろうと”ちゃんと”生きてきたけど、
心の底では”ちゃんとしない”で生きたい、と思っているんだ」
と気づきました。
図にすると👇の⑤の状態です。

本当はラクに、頑張らないで生きていたいと願っていた
⑤にて
「もっとわがままに、傲慢に、人を頼って、気楽に、できないことはできないと、
ありのままに『アレしたい、コレいや』と言って生きたいと願っているんだ」と、
自分の内なる欲求に気づいてしまった僕は今、結局、①に戻ってきました。
これが図の『⑤→①』で、今ここで完全に矢印が1周しました。
まさにスゴロクの”ふりだしに戻る”状態。

再び“ホンネの自分”にたどり着いたところで
そして、この図を見て僕は、
あぁ、自分は約30年をかけて①→②→③→④と歩み、
今まさに⑤に気づき、そして再び①の本音の気持ちにたどり着けたのか…
と、ちょっと感慨深くなっています。
物心つく前、幼稚園くらいの時までは①で、わがままに、ただ面白いことを気が済むまでやって生きていました。
でも小学生になると、勉強やスポーツや人付き合いなど、あらゆる中で”ちゃんと”しようと②の状態に移っていきました。
ときに③のように、人にムカつくこともありました。
でも、小中高大と、その”ちゃんと道”のなかの、
いかに”ちゃんとできたかのモノサシ”の中で、そこそこの優等生になれたおかげで、
ながらく④の状態とは無縁の、つまりは大きな挫折もなく社会人になりました。
ですが、結局は会社員として働き始めてから、限界がきて④の状態となったのでした。
ふりだしに戻った自分に、あらためて僕は問いかけたい
心の僕「さぁ、たけ(あ、僕の名前です)よ、
お前はこの世に生を受け、①から歩み始め、
約30年かけて今また①に戻ってきた。
ながかったな。よくやってきたよ、お前は。
さて、ここからだ。
お前の前には、今大きく2つの道がある。
ここからの人生、30年前のお前と同じ、また②へと歩みを進めるのか?
それとも…。」
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「さあ、どうする?」
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僕「②じゃない、もうひとつの道はどこへ続くんですか?」
心の僕「②’ だ。『たけ2.0』のはじまりだ。
だが、その道がどこに続くか、俺もわからない。
ただ、本の人たち曰く、どうも”ワクワク人生”らしい」
僕「わからんのかい。
こっわ・・・ホンマにワクワクなんですか?
・・・こっわ。」

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