こんにちは。
私は旧帝大の大学院(博士課程)を修了後、大企業の研究者として働きはじめました。
就活時に望んだ研究部署で働けることになったにもかかわらず、そして、自分の好きな研究ができる環境に恵まれたはずなのに
「毎日全然楽しくない」
「月曜日が憂鬱」
「仕事やめたい…けどせっかく入れた一流企業だしな…」
こんな風なモヤモヤを入社半年後くらいから感じはじめ、そして入社3年目にして適応障害と不安障害と診断されるに至りました。
はたから見れば、いわゆるいい大学、いい企業、ホワイト企業に勤められたにもかかわらず、こうなってしまいました。
今回の記事では、私が適応障害になった経緯と、病気になったからこそ気づけた「幸せな人生を送るために大切なこと」について書こうと思います。
とくに以下のような人には参考になる内容かと思います。
適応障害になるまでの経緯
私は3年前、旧帝大の博士課程で博士号を取得し、第一志望である某メーカーの研究職に採用されました。
自分でいうのも畏れ多いですが、誰もが聞いたことのある企業。メーカーの中でも高収入。いわゆる、ホワイト企業と称される、一流企業です。
そこの研究所で、自分の専門性をドンピシャで活かすことのできる部署に配属され、とても恵まれていたと思います。
そんな私が適応障害になるまでの経緯を書いていこうと思います。
入社日に感じたピリついた雰囲気
今でも覚えてます。入社初日、初めて配属部署のデスクにつき、部のみなさんに挨拶をしたときのこと。
まずシンプルに職場が暗い。これは照明的な暗さですww
節電のためらしいんですがめちゃ暗かった(笑)
とまあこれは軽い冗談ですが、でも正直、雰囲気も暗かったんです。みんなすごいそっけない感じ。
「あれ、なんかみなさんピリついてる?」と直感的に感じてしまいました。
で、その後も働く中で、ピリつきを感じることが多々ありました。
たとえば…
50代ベテランプロジェクトリーダー(私のOJT)が年下50代部長に、みんなの前で叱責されたり、時に裏で「なんであんなこともできないんだ(呆笑)」と陰口を言われていたり。
部長と課長の議論がヒートアップし、すごい剣幕でとげとげしい言葉で互いをまくし立てたり。
その部長は部長で、上の立場の人に研究進捗の少なさで怒られ、大きな舌打ちとため息をついていたり。
室内の先輩たちが飲み会で口々にその部長の愚痴を言いあったり。
プロジェクトの社内メンバーが共同研究先の企業の方の進捗が悪いと裏で口々に避難したり。
どこかの誰かがプレゼンをしてそれが終わるや否や、嫌味な言い草で詰めるだれかの声が聞こえたり。
部下に対して、この研究プロジェクト(課長は別プロジェクト管轄)は意味がないと半笑いで言い放つ課長がいたり。
。。。
それでもみんな、まじめに夜遅くまで残業してるんです。
上の人からチクチク言われながらも、プロジェクトを着実に進展させていました。
ペーペーの私が言うことじゃないですけど、みんなすごい仕事がデキる人なんです。
でもみんなそれぞれが誰かの顔を伺い、誰かに怒られまいといろんなことを我慢して頑張ってるようにも見えました。
そして当の私は、自分に言われているわけでもないのに、誰かが誰かを叱責したり嫌味や陰口を言っている言葉が耳に入り、そのたびに胸が苦しくなったんです。
いつもせわしなく成果のためにピリピリ働く職場の雰囲気を受け入れらず、次第に自身も「怒られないようにしなきゃ」と思うことが増えました。
楽しくやりたい気持ちはとうに消え去り、「評価を落とすまい」と考えることが多くなっていたのでした。
苦手なことが求められる業務内容
業務内容は、とある材料加工プロセスの一要素技術の開発、それからプロセス全体のできばえ評価担当でした。
このプロジェクトは複数の会社との共同研究で、自社はプロジェクトのマネジメント的立場でした。
ゆえに私の業務も基本的にマネジメント。たまに、検証実験でした。
やることの多くは計画を立て、その実行をコラボ先にお伺い、依頼して、その結果を吸い上げて、また計画を練り直して…
という頭脳中心の業務。
そして私はこの計画策定が致命的に苦手でした。
大学院時代はほとんど計画なしに、その場その場のひらめきとワクワクで突き進んでいました。
無駄足も遠回りもたくさんしましたが、私の才能的にはそのやり方が一番合っていました。
でも現職では共同研究ということもあり、きっちり事前に計画に落とし込まないといけない。合意形成を取るために。
大好きな実験業務はほとんどなく、メインがそんなマネジメントだったので、正直もう毎日ずっとつらかったです。
「ちゃんとしなきゃ」の呪縛
とはいえ、(厄介なことに)博士卒入社としてのプライドも大いにありました。
ピリついた職場だったこともあり
「上司に詰められないようにしなきゃ」
「できるやつと認められたい」
という思いがより強くなり、報告書や資料作成に完璧主義が出るようになりました。
どれだけ作り込んでも「これじゃ怒られるんじゃないか」と不安になり、修正に修正を繰り返し、いつまでたっても仕事が終わらないんです。
しかも、上司にダメなやつだと思われたくないから相談もできない。
相談できない、でも仕事は進まない。一方で新しい仕事は増えていく。
どんどん仕事がたまり、やりたいことは後回し。やるべきことに追われる日々。
いろんなタスクの納期が刻々と迫る日々にずっと緊張状態が続き、時にそんな日々が辛くて涙を流すこともありました。
それでもなお、「博士卒のデキる奴」になるためのゴッツイ鎧をまとい続け、上司にもあからさまな相談はできず終いでした。
こんな風に「ちゃんとしなきゃ」と武装に武装を重ね、どんどん重くしていったその鎧で自らを苦しめていったのです。
「ワクワク」より「怒られないように」で仕事する日々
本当の自分は
「やってみたい!」「もっと知りたい」「おもろそう!」
こんな心の声に従い、興味のままに実験し、学び、考え、手を動かし、観察し、技を磨き、深めていく。
そんな「知的好奇心」のままに「没頭」することが自分の幸福感にとってはとても大切な価値観でした。
また、そんな無邪気な自分が受容される「愛」ある「平和」な人間関係や雰囲気もとても大切でした。
深いつながりを根底に感じられているからこそ「好奇心」むき出しに、まるで子供のように「ありのまま」の自分で生きられる。
実家帰省時に甥っ子と遊んでた時や、研究に打ち込んでいたラボ時代がめっちゃ幸せやったのは、まさにこれらの価値観が満たせていたから。
でも職場では、「ピリついた雰囲気」「得意が活かせない日々」「自分で重ねに重ねた鎧」により、ワクワクで平和な感覚はなかなか実感できませんでした。
もはや仕事に「楽しいからやる」は無くなり、かわりに「評価を下げないようなるべくミスなくしなきゃ」がモチベーションになっていました。
そうして徐々に、「この研究や、そもそも自分の仕事は何のためにあるんだ」と根本に疑問を持つことも増えていきました。
そしてあくる日の朝、仕事に行こうとすると足が動かなくなり自宅で涙が溢れたのでした。
病院に行って適応障害、不安障害と診断されました。
適応障害はとある「生き方のクセ」に集約されることに気づいた
はい。以上が私が適応障害になるまでの経緯になります。
適応障害になった私は休職させてもらい、時間をかけて、これまでの半生を振り返りました。
上で書いたようなことは、じっくり振り返るなかでようやく言語化できたものです。
そして適応障害の件のみならず、人生レベルで過去や未来を考え続ける中で、あるとき適応障害になったのが、とあるたった一つの自分の「生き方のクセ」に集約されることに気づきました。
もっといえば、この生き方のクセが適応障害だけでなく、人生の至るところで現れ、自分を苦しめる原因になっていたことに気づいたんです。
が、これは、次の記事で書こうと思います。
>>一流企業なのに生きづらいのは自分の「生き方のクセ」が原因だった
適応障害になったことで気づけた人生で大切なこと
適応障害になってから、なんでこうなってしまったんだろうと考え続けました。
来る日も来る日も、適応障害になったのなぜか、それよりもっと前の人生ってどうだったのか、そしてこれからはどうしたらいいのか。
色んな本や動画もみながら、ずーっと考えていました。
そして、少しずつではありますが、自分の中でとても重要な気づきを得るに至りました。
それは…
「自己理解」が人生レベルでとてつもなく重要である
ということ。
つまり、自分のことを深く知ること、です。
なぜ自己理解が大切だと感じたのかというと。
端的にいえば、自己理解により自分の生きる方向性、目指すべき北極星が見えてくるからです。
北極星が見えると、余計な外側のノイズに惑わされにくくなり、”自分らしい”生き方を見出せるようになるからです。
もうちょっと言い方を変えると…
”社会の定義する幸せ”を手にするために社会の枠に自分を当てはめようとする、のではなく
”自分なりの幸せ”を感じられる人生を歩むために社会を利用する、という発想で生きられるきっかけになるからです。
究極的に自己理解を極めれば、お金とか知名度みたいな一般的な成功基準に惑わされず、自分の北極星に向かって歩んでいる「今その瞬間に幸せを感じられているか」という自分だけの基準で生きられるようになるんじゃないかとすら思っています(まだ自分をその境地に立っていないので仮説ですが)
もうこうなると、周りがなんて言ってようが、社会一般で何が成功か議論されていようが、自分の人生の成功とは全く関係のないものとして、自分軸で生きることができますよね。
これが、自己理解の真髄だと思います。
自分がどんな時に充足感や幸福感を感じるのか、逆にどんな時に辛くなるのか。
どんな信念、こだわりを持っているのか。どんなことが得意で苦手なのか。
私の場合、人生振り返れば「知的好奇心を満たせている時」や肩肘張らず「無邪気に穏やかにふるまえている時」 がとても幸福でした。
また、「ひらめいたらすぐ行動すること」や「技術体得のために基本を理解・反復し、使いこなすこと」が得意で充足感を感じる一方で、逆に「計画すること」や「基本の型自体を自分で作り上げること」が苦手です。
私はこうした自分の特性を適応障害になった後で言語化することができました。
でも別に、適応障害になる前でも、たとえば就活の時とかでも言語化できていたはずです。
でも就活のときは、いかに「よい人材」かをアピールすることばかり考えていたために
自己分析していたようで、じつは、会社に求められる人物像に自分を押しはめていただけでした。
だからこそ入社してから、演じる「求められる人物像」と「本来の自分」とのギャップに耐えられなかったんだと思います。
就活の時は、良い条件の会社に入ることが第一目的だったのですが、今振り返ればそれはよくないと言い切れます。
なによりもまず「自分がどうあれば幸せなのか、だからどう生きたいのか」が先にあり、会社はその手段として選ぶべきでした。
もし今読者の中に就活生がいるなら、今すぐにでも深く自己理解に取り組んでもらいたいです。
自己理解するうえでとても良かったのはで、八木仁平さんの著書「世界一やさしい『やりたいこと』の見つけ方」です。
この著書のやり方に沿って、私自身が自己理解したときの記事もアップしていますので参考ください。
>>【研究職が生き方を再考する④完結編】本当にやりたいことを決める
適応障害になったら休むべき?
結論、休んだほうがいいと思います。私の経験を通じてもそう思います。
私の実感ですが、適応障害になる人って自分の心の動きに敏感でありながら、それ以上に周りの目にも敏感である人だと思うんです。
心の奥底でうっすら感じている「なんかこの生き方は違う気がする…」という違和感が、いわゆる社会常識や周囲の目といった「フタ」で抑えられなくなった時、適応障害として体の不調に表れるんだと思います。
なので、そんな人がまずするべきことは、その世間の声を排除できる静かな環境に身を置くことかなと。
いったん自分の気持ちに「フタ」をしてしまう環境から離れ、心の欲求を一度あふれさせること、そして整理すること。
そのために一度会社を休ませてもらって、自分と向き合える時間を確保するのが良いんじゃないかなとおもいます。
私も休職させてもらい、しばらくは療養につとめ、動ける元気が出てきたら自分がやりたいとおもうことを少しずつやりつつ、自己理解をすすめていきました。
まとめ|人生に対するモヤモヤ感は絶対スルーするな
以上、私が適応障害になった経緯と、そこからの気づきを共有させてもらいました。
最後に一番強く言いたいのは「人生に対するモヤモヤ感は絶対スルーするな」かな。
このモヤモヤ、自分の心奥底の「こう生きたいんだ!」という叫びから来ている可能性が高い。
そして、これまでは色んな社会のしがらみにより聞こえなかった、その魂の叫びが、耳に入ったなら、それは人生を大きく前に進めるチャンスになるかもしれません。
私はこのモヤモヤにより体調を崩しましたが、それを機に、生まれて初めてといっていいくらい深く人生を見つめました。
そしてその結果、いま、人生が大きく動き出そうとしています。
これを読んでいる皆さんはぜひ、その心の声を見て見ぬ振りせず、拾い上げてみてください。
ではまた。
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