こんにちは。
人生には、大きな岐路で悩み苦しむとき、ありますよね。
今回は、「あれがいいかな、こっちがいいかな」って色々悩んで将来が不安になるけど、それあんまり意味がないかもな…
という自分の中での気づきをお話したいとおもいます。
すごい悩み苦しんでいる人に対しては、結構しんらつに聞こえるかもしれませんが
そもそも、僕自身めちゃくちゃ小心者で、節目のたびに涙するほど悩みまくっていた男です。
で、ここ数年も、やっぱ悩むことが多くて、岐路にたって、どうしても決められないと苦しんで
いよいよ、どうにかならんのかね、この苦しさはと思い、
色んな人の考えを聞き、自分も色んな視点で物事を考えるようになって、ようやくたどりついた今のところの結論が、
「AかBか、どっちでもいいかもしれない。結局は、えいやっと選ベば、それでいいのかも。」
です。
ただ単に、呪文のように自分にそう言い聞かせている、というわけではなくて、
昔の自分にはなかった、新しい視点や、物事のとらえ方、気づきを得て、整理していったところ
論理的な帰結として、上のようなマインドセットになったんです。
今回の記事では、そんな結論になるに至った新しい視点やものごとのとらえ方、僕なりの気づきや思考法を6つ共有させてもらいたいと思います。
全てのできごとに色は無し
少し前の僕は
「脱サラしたいなぁ、でも、こわいなぁ。やっぱ会社員のままがいいかなぁ、でもなあぁ」
と悩んでいました。
僕の中ではこんな図式になっています。
「脱サラ=自由だけど不安定なもの」
「会社員=不自由だけど安定なもの」
みなさんもきっとこうですよね。
ただ、ただですよ?
れいせ~いに考えると…べつにそうだとは限りませんよね?
僕たちはこの図式にあてはまらない、例外的な人物を知っているはずです。
脱サラして自由も安定も謳歌している人、
会社員でも自由にやりたいことを嬉々としてやっている人、
安定なはずの会社員だったのに倒産して職を失った人。
頭に浮かぶ人、いるんじゃないでしょうか?
でも僕たちは、そんな人は数派だ、といって、まさに例外として、上の図式からはじきます。
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他にも、上の脱サラ問題に際して、僕はこんなことも悩んでいました。
「脱サラして収入が減るのはいやだなぁ、でも、将来増えないときまったわけでもないしなぁ」
僕の中ではこんなイメージがありました。
「収入減=暗くて怖いイメージ」
「収入増=明るくて楽しいイメージ」
でも、これについても、例外をいっぱい知っています。
というか、僕自身が博士課程学生だった時代、月に16, 7万円の収入で、充実した日々を送れていました。
お金のことなんか、微塵も心配になったことがありませんでした。
みなさんも、例をあげなくとも、頭に浮かぶ例外があると思います。
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上で見た2つの例からわかること。
それは、僕たちは物事に対する印象やイメージをなかなか離せない、ということです。
もっといえば、そもそも物事は全てニュートラルで中立で色はないのに、
僕たち自身が勝手に色やイメージを付けて、
その色・イメージをずーっと離せないんです。
”脱サラ”ってのは、ただただ”会社を辞める”っていう現象にすぎません。
なのに、僕が勝手に、なにかで見たのか聞いたのか、”脱サラ”と”不安定”とか”苦しいイメージ”を紐づけちゃっているんです。
だから、必要以上に悩んでしまっているんです。
ようは、世のできごとは全て中立で、自分の”解釈”が悩みを生んでいる原因なんだ、ということです。
僕は最近、これを、また別のタイミングで強く実感したことがありました。
それは職場での上司同士の言い争いを見た時のことです。
僕は、すごい剣幕で議論(もはや口喧嘩w)してピリつく雰囲気が、僕にはとても怖くてドキドキしていました。
僕は言い争いとかで場が穏やかじゃなくなるのが、ホント苦手なんです。
あ…なんか言い合いしている…怖いなぁ…と。
でも、同じ職場で働く女性社員さんと後日飲み会で話した時に、彼女は「え~、あれめっちゃウケたんですけどw」って言ったんです。
「なんか普通におじさん同士が言い合いしてて、おもろ~、ってなってました」と。
え、まじすか(笑)と驚きを隠せない僕。
聞けば彼女はヤンキーみたいな親(彼女本人が言ってましたw)に育てられたそうで、あんな言い争いとか空気感は日常だったそう。
僕と彼女の受け取り方の違いをまざまざと感じた僕は、
まぁたしかに、あれは、「50代男性二人が言い合っている」というのただの現象に
僕は「こわいな」という色を付けて、女性社員さんは「おもしろいな」という色を付けた、ということだと再認識し、
「あ、ほんまに自分の見てる現実って自分の解釈次第なんや…」と思いました。
人はみんな裸で生まれてくる
別の話をします。
僕には今2歳になる息子がいます。息子を見ていると、色んな事に気づかされます。
息子は最近牛乳が大好きなんです。2日で1Lのパックを空にしてしまうほどです。
1日になんども牛乳を飲んではおかわりをせがむ息子に、僕の妻が
「もう飲みすぎ!お腹壊すよ!これでおわりっ!」
と厳しめに言い放ち、息子は泣いている、という光景を最近はよく目にします。
(僕は、まぁまぁべつにええやん、と息子に頼まれればすぐ牛乳を注ぐかんじのテキトーな父ですw)
でもたとえば、僕が1日に1L牛乳を飲んで妻に「飲みすぎ!」と怒られても、別に泣きません。
自分でもたしかに飲みすぎている自覚があるからです。すんませんと妻に言って終わりです。
でも息子は、自分が「飲み過ぎている」という感覚はありません。ただ飲みたいから飲んでいるだけ。
2日で牛乳1Lが「度が過ぎている」とは思わないのです。
なぜなら、息子には、牛乳を1日にどれくらい飲めば良いのか、どれくらい飲んだら悪いのか、というモノサシがないからです。
でも僕自身や妻には、そのモノサシがあるんです。生まれてから今まで育ってきた中で、そのモノサシを身に着けたんでしょうね。
こんなことが、息子を見ていると、たくさんあります。
どれも、息子には新しい。初めてのもの。すべてにおいて、何がよくて、なにが悪いかなんてありません。
とりあえず触るし、なんでも口に入れます。普通に泥水すすろうとします。
モノサシがないんです。
なぜなら、人はみんな裸のまっさらな状態で生まれてくるからですよね。
ガラスのモノサシ
じゃあ、大人になった僕がいま感じている「収入が減る=暗くて怖いイメージ」。
これもいつの間にか身についたモノサシによるもの。
『収入が高いほうがいい⇔収入が低いとダメ』ですね。
身近な人や、テレビや、本や、漫画や、アニメや、SNSなど、これまで生きてきた中で僕が触れてきた情報によって
こういうモノサシが出来上がったんでしょう。
でも、世の中には、清貧でむしろ低収入ほどよい、というモノサシを持っている人もいるし
そもそも、収入の高い低いについてのモノサシを持っていない人もいます。
たとえば、僕の息子とか。
たとえば、研究に打ち込んで気づけば15時間ぶっ通しで顕微鏡のぞいていたような博士学生時代の僕とか。
まったくお金のことなんか気にすることがなかった。どうでもよかったんです。
けれど、あれから数年経った今の僕にはお金のモノサシが身につき、お金のことで怯えています。
この経験から僕が何を感じたかというと、何かについての「良し悪し」の判断軸は、とてももろいな、ということです。
僕らのもつモノサシは、たった数十年という超絶短い人生の中で触れてきた、ごくごく限られた情報によってつくられた価値基準でできているんです。
すーっごい狭い視野で出来上がったモノサシです。
よく、留学にいって帰ってきた人が言うでしょう?
「価値観がかわった。視野が広がった。」って。
具体的に何が変わったかは人それぞれでしょうが、自分が知らなかったことを知った、ということでしょう。
それによって、自分の従来のモノサシが更新または廃棄され、進路や生き方を大きく変える人もいますよね。
つまり、それくらい、良し悪し、的なモノサシは時間や経験とともに変わりやすく、壊れやすい。
まさにガラスのモノサシなんです。
そんなガラスのモノサシをもってして、僕は、将来的にどっちの道を選べばより幸せになれるんだろうか、と悩んでいるわけです。
いやいや…
その未来にそのガラスは割れているかもしれないよ。まぁ、でも、もちろん割れていない可能性もあるけどね。
ようは、そもそも偏った価値基準でできていて、そして壊れやすい、そんなガラスのモノサシを、そこまで信用する必要はあるのかな、っていうことです。
未来の僕にとっての幸せのモノサシはぜーんぜん違ったものになっているかもしれない。
だとしたら、今の僕は、今の僕にとって、「こっちが幸せかな~、なんとなく」と思えるほうを選べばそれでOkなんじゃないでしょうか。
人間には世の1%も見えていない
そして、いかに自分の視野が狭いか、ということに関連したもう一つ別の話。
僕は研究職なんですが、自分の研究分野では”光”なども扱います。
で、光っていうのは”電磁波”なんです。この世の中には、もう、それはそれはたくさんの電磁波であふれています。
Bluetoothとか、Wi-Fiとか、携帯電話の通信とかですね。
電磁波には、色んな波の長さ=波長があります。
レントゲンでよく聞くX線は波長が短い電磁波で、通信とかでは長波長の電磁波を使います。
人間が見ている光(電磁波)の”色”は波長の長さの違いで生じるものです。
人間の目が認識できる光は赤色~紫色の数百ナノメートルくらいの長さの波長で、これを別名で可視光といいますよね。

さて、上の図を見てもらうと、可視光(赤~紫色)は世にある数多の波長の、ほ~んのわずかな部分にしかないことがおわかりでしょうか?
日焼けとかに関係する紫外線や、遠赤外線ヒーターとかで聞く遠赤外線でさえ、人間の目ではほとんど見えません。
ざっくり見積もると、可視光は、全波長域の0.0000000000000000000001%です。
僕の目には世の1%どころか、0.0000000000000000000001%しか見えていないんです。
でも、目に見えていないだけで、世の中には存在しているんです。
あ、あそこにBluetoothの波が見える、とかいう人いないですよね。でも見えないだけで、そこら中にあります。
僕らは科学技術の発達のおかげで、この事実を知っているだけです。
昔の人は、目に見える以外の電磁波があることなんて知る由もありません。知覚できないんだから。
これは、人間の5感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)全てにおいて言えることです。
人間の5感で感じ取れることなんで、実際に世の中に”ある”ものの内の、ほっっんの一部しかない。
この世界には、人間が感じ取れないことのほうが圧倒的に多い。
そ・れ・な・の・に。
僕は、これまで生きてきたごくごく短い時間のなかで見聞きした、ごくごく限られた情報や、知覚したごくごく限られた経験をベースに
あれがいいか、これがいいか、と悩んでいるんですね。
もう…ほんと、憎めないやつですよね。。。
悩んでいる時点で、どっちでもいい
最後です。
僕は大学院生時代、修士課程を終えたら博士課程へと進学するか、就職するか、
めちゃくちゃ迷いました。それはそれは、涙するほどに。
>>【D進か就職か】泣くほど悩んだ末に凡人が博士課程に進学した3つの理由
なぜかというと、進学したら、楽しい研究が続けられるけど、安定収入が保証されないし、
就職すれば安定収入は得られるけど、今の楽しい研究をつづけられないから、という天秤状態でした。
まぁ、つまり、どちらにも魅力があったからです。だから泣くほどに迷っていたんです。
でも僕の大学院時代の友人は、博士課程に進学するか、なんて微塵も迷わず就職していました。
なぜかといえば、比較するにおよばないほど、彼にとっては進学に魅力がないからです。
それから僕は、最近まで、脱サラするか、会社員をつづけるか、で迷っていました。
なぜかというと脱サラにも、会社員にも、どちらにも魅力があるからです。
でも入社1年目とかは、脱サラとか考えもしませんでした。
結婚して間もないころで安定収入がほしかった当時の僕にとっては、まったく魅力がなかったからです。
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つまり、何が言いたいかといえば、迷っている時点で、どっちも魅力的なんです。
そもそも魅力がない選択肢は、迷う土場にすらあがりません。
迷っている時点で、どちらも、選ぶにふさわしい理由があるんです。
言い方を変えれば、どっちになってもいいって思っているんです。
だから、迷っている時点で、どっちでもいい。
あとは、えいや!で決める勇気だけってことですよね。
ま、それができりゃ、こんなに悩むことないわ、ってはなしなんですが(笑)
実験の心意気
さて、ここまで色々話しました。整理しましょう。
- 現実のできごとは全て色はない。自分の解釈があるだけ。
- その自分の解釈(たとえば良し悪し、みたいな)は、最初は真っ白の裸で生まれてきてからたった数十年の中で見聞き経験した、ごく限られた視野でつくられた価値基準=壊れやすいガラスのモノサシである。
- しかも、そもそも人間が見聞き(5感で知覚)できる世界は、0.000・・・1%の、ほんの少ししかない。
- そんな偏ってもろいガラスのモノサシを、そんな悩み苦しんでまで、信用します?
- もう一つ言うと。迷っている時点で、もはや心の中ではどっちも魅力的に思っていて、どっちになってもいいと思っていますよね?
こんなかんじです。
だけど…だけどさ!
そう頭で理解できたとて、まだ選ぶのを恐れてしまう気持ちがあるんだよ、こっちは!!
ってなるんですよね…
もうほんまに、どうすればええねん、この気持ちの小ささは、と。
で、最近ですね、そんな小心者で気弱な僕が、
「あ、こう考えることができれば、”選ぶことの恐さ”がかなりラクかも!」
と思える考え方、というか、人生のとらえ方、みたいなものを手に入れました。
それは、「これは実験だ」という心意気です。
・・・
・・・
ん?ってかんじですかね(笑)
これはですね、なにも、状況をどうにかポジティブに捉えましょう、みたいな根性論チックな話じゃなくて…
「迷いながらも何かを選び、進んでいく」という人生における行為自体が、ホントに研究における実験のスタイルそのものなんです。
どういうことか。
研究における実験っていうのはですね、
そもそもなにか明らかにしたいこと(目的)があって、自分の中のいくつもの仮説をひとつひとつ検証するために実験するものなんですね。
で、実験結果をうけて、「あ、違うかったな、また別の仮説を検証実験してみよう」とか
「あ、なんかそれっぽいかも。とすれば、またこんな仮説も立てられるな、よし実験して確かめてみよう」
と、いずれにしてても、「仮説→実験→検証→新しい仮説→実験→検証→また新しい仮説…」のループをくりかえしながら、目的に近づいていくんです。
そして、人生において「迷いながらも何かを選び、進んでいく」という行為も、
幸せになりたい、という目的がまずあります。
そして、自分の中で「こうすれば幸せになるかも」と思える仮説(選択肢)があるんですよね。
僕の話でいえば、進学と就職のどっちをとればいいのだろうか、と悩んでいたので
仮説A:進学すればより幸せになる
仮説B:就職すればより幸せになる
ということです。
で、当時の僕は結局、仮説Aを選択し、進学する道を進みました。
その結果、博士課程の3年間はとても充実しており、
「好奇心のままに没頭できることが僕の幸せ感にとってとても重要だった」
という、ひとつの検証結果が得られました。
しかし、その数年後、新たに、会社での仕事が辛いという課題にぶち当たり、
またそこで、(仮説A)脱サラが幸せかもしれない、(仮説B)会社員をつづけることが幸せかもしれない
という新しい2つの仮説をたてました。
そして、僕は仮説Bの道を選び、再び、Bが目的(幸せになる)を果たすために有効なのか検証するために実験という名の旅にでかけました―――
どうでしょうか?
人生で迷っている選択は、自分がより幸せになるために検証するべきだと思っている仮説なのだと、そう思えてきませんか?
そして、迷いながらも選択してその道を進んでいく、ということが、その仮説を検証するために実験をすることなんだと、思えてきませんか?
いや、思えてくる、とかではなくてですね。
もはや、研究における実験検証のスタイルと同じ構造なんです、これは。
(あ、ちなみに僕はメーカーの研究職やってます。いまさらですがw)
これに気づいてから、僕は最近、
人生は、自分が幸せになるという目的を果たすための実験をひたすらくり返していくことだ。
とナチュラルに思うようになってきました。
「あれ、なんかこの生き方しんどい」と感じるのは、仮説が間違いだったことが明らかになった、という重要なデータなんです。
だから、また別の仮説(選択肢)をさがし、それなら幸せになれるかもしれない、と日々のなかで検証実験します。
なにか、A or Bの選択に迷ったとき、AにしてもBにしても、どっちにしても、
これは「自分なりの幸せ探し」という研究テーマの実験をしているにすぎないんだ、と思えれば、
もし、その先の結果が、仮にツライものになったとしても、それは、
「あ、この仮説(選択肢)は間違っていた」
という一つの重要な実験結果がでた、ということで、研究テーマの目的達成にまた一歩近づけた、ということです。
僕は充実していた博士課程の経験から
「マイペースに好奇心を満たせることが自分の幸福感にとって大切だ」
という重要なデータを得て、
就職して、ピリついた職場で周りの評価におびえ、うつ状態になった経験から
「争いのない穏やかな人間関係や場が大切だ。そして仮面をつけて評価を追うのでなく、真に自立して自分のホンネに従って生きることが大切だ」
という、これまた幸せな人生に近づくための重要なデータをとることができました。
くりかえしますが、人生は実験の連続、なんです。
AをとろうがBをとろうが、どのみち、その道の先で出てくる実験結果は、あなたが幸せになるという目的を果たすための重要なデータになります。
人生を、そうした「実験の心意気」でとらえることができれば、
頭を抱えてしまうほどに悩み苦しむ岐路にたっても、
ちょっとだけ、ラクに考えれるようになりませんかね?
まとめ
ということで、今回は、ちょっと重めのテーマでした。
岐路で悩みがちな小心者で気弱な僕が、人生の迷いを以前よりもだいぶとラクにとらえられるようになった
物事の捉え方とか視点、思考法などを6つ共有させてもらいました。
はじめに自分のもつ「良し悪し」のモノサシがいかに偏り、そして、いかに簡単に壊れてしまう価値基準でつくられたものなのか、という
迷っているときの判断基準の脆さと浅はかさ、についてお話させてもらい、
いや、そもそも迷ってる時点で、どっちでもいいと思ってるよね、実は、
という、そもそも論的な視点を重ねて、”迷う”ことで感じる”苦しさ”の虚構性をあぶりだしました。
そのうえで、それでも迷うなら「人生は実験の連続」で、どっちを選んでも結局、幸せになるという目的に近づけますよね、
という、ちょっと理系チックな視点での人生の捉え方を話し、”人生の岐路で悩み迷う”ことのまた新しい姿を垣間見ることができたかな、と思います。
そして、これらを僕自身の中で、みっちり吟味して、咀嚼していった結果、
最終的に、冒頭に言わせてもらった
「AかBか、どっちでもいいかもしれない。結局は、えいやっと選べば、それでいいのかも。」
という結論に至っちゃったんですよね。
どうでしょうか。皆さんの中で、選択をすることに対する恐怖感とか、迷いについてのとらえ方が少しだけでも変わりましたか?
「あれ、もしかして人生の迷いって、そこまで苦しいものでもないのか…あれ、あれ?」
と、「人生の迷い=不安、苦しい、つらい」という図式がちょっとでも揺らいでくれましたら、うれしく思います。
では、今回は以上になります!
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