こんにちは~。
最近、どうも妻との雰囲気がよくないんですよねぇ。
これまでも小さなすれ違いとかいざこざはありましたが、単発でした。
でもここ最近は、なにか、ずーっと軽くぎくしゃくし続けている、というかんじ。
「どうも、これは単なる夫婦喧嘩の話ではなく、自分自身に根っこの問題があるのではないか?」
そう直感したので、ちょーっと振り返ってみました。
で、結果、夫婦のすれ違いの原因の一部は、妻の言動ではなく、僕自身の自己肯定感に深く関わっているような気がしてきました。
この記事では、そんなお話を。
ある晩の小さな言い合い
とある晩にちょっとした言い合いをしました。
その夜、僕は気持ちを切り替えられず、モヤモヤを抱えたまま眠りについたのですが、
妻は翌朝には切り替え(ようとした)のか、普段どおり明るく振る舞っていました。
しかし、僕はそのテンションについていけず、テンション低め。
妻から時折感じる視線にも目を合わせることができませんでした。
その日、僕は体調不良で会社を休んでしまいました。
先に仕事に行っていた妻に、そのことを僕は知らせませんでした。
夕方、僕が外出中に家に帰った妻から「大丈夫?」と心配のLINEが届きましたが、
僕はその場で読むだけ読んで、後からそっけなくスタンプだけ返していました。
その夜、妻は少し沈んだ様子で、悲しそうに見えました。
寝るとき、妻はこう言いました。
「返事くらいしてもいいんじゃない?…今日はとてもつらい気持ちになった」
「あなたは人への配慮が少ないように思う」
この言葉を聞いて、僕は大きなストレスを感じました。イラっ、モヤモヤ、としたんです。
。。。と、これは一例ですが、こんなことが最近頻発し、普段の生活で、ずーっと妻に対してやんわりとイライラを感じてしまうのです。
いよいよ、これは自分に原因があるんじゃないかな…と思い、いい機会だったので、このイラっとしたタイミングで改めて振り返ってみたのです。
自分の中にある「いじわるな気持ち」
振り返ってみると、僕はあえて妻を困らせたり悲しませたりするような言動をとっているように思えてきたんです。
「大丈夫?」LINEをスルーしたとき、頭の中で何を思ってたのか思い出すと…
無意識のうちに「こうすれば、妻も困るだろうな」みたいな意地の悪い考えをもっていたように思うんです。
(今思えば、まるで、反抗期の小学生みたいだ…)
でも、けんかをしていない普段、僕は家族の平穏と幸せを心から願っています。
なのに、言い合いをした後などは妻が悲しんだり、困ったりすることをあえて選択して、
そしてその結果(案の定?)妻が僕にイラっとすることで、さらに関係がぎくしゃくする…みたいな。
家族の平穏とは全く逆の言動をとっちゃってるんです。
なんで、こんなひねくれたことになっているんだ…?
と自分で自分の行動とか心理がよくわかりません。
なにか、自分の心の中に隠された”ねじれ”があることにいまさらながら気づいた瞬間でした。
妻への反発の正体
このひねくれた行動原理を探るため、もう少し、自分の気持ちを丁寧に思い返してみた。
妻をあえて傷つけるようなことをすると、(無意識の僕のねらいどおりなのか)妻からは
「私はあなたのことを考えて気を配っているのに、あなたは全く配慮してくれない」
と言われ、そして、僕の中には強い反発が湧き上がります。
「こっちが”させてる”みたいな言い方してるけど、気を配ろうとしたのは、そっちの勝手な選択やん。」
と、そんなすかしたスタンスをとってしまっていました。
この思いの魂胆をじぶんなりに分析すると…
僕は多分、「自分の方が正しいんだ」と妻に認めてもらいたい、と思っているんじゃないかと思います。
妻に「私が間違っていたのかもしれない」と認めさせたい。
おそらく、この欲求が、妻に対する冷たい態度をとらせていたのだと気づきました。
妻が「母親」に見えてしまう
さらに気づいたことがあります。
そういえば、ぼくにとって妻が”母親”のように感じられる場面があり、これもそこそこのストレスだったんです。
例えばこの夏、こんなことが何回かありました。
妻「暑いから帽子をかぶったら」
僕「いらんかな」
妻「いや、被った方がいいって」
僕「いや、帽子かぶったほうが汗かいて不快やねん」
妻「最近頭痛くなりがちやねんから、かぶりって」
僕「いや、だからいらんって!!」
・・・
こんなやりとりです。
まるで、母親みたいな妻に、かなりイラついてしまいます。
当然、妻は心配しているんですが、どうも僕の中では「自由を奪われている感覚」が強く反応しているんだと思います。
妻に対して、「心配しているようで、それは、こちらの言動の自由を奪っているようなものなんだぞ!」
と、これまた、「自分のほうが正しいことを言っている!」という強い思いを心に抱いていることに気づきました。
根本は自己肯定感の低さにあるのかも
「とっさに妻を困らせようとしてしまう」気持ちと「自由を奪われたくない」気持ち。
これら2つは、「自分の正しさを認めさせたい」という思いで通じていました。
そして、さらにその根底にあるのは、妻の言動うんぬんではなく、僕自身の自己肯定感の低さにある、と気づいたんです。
つまり、僕は自分を守るために正しさを頑なに主張し、自分の非を認めることができないんだと思います。
なぜかといえば、妻の言い分を、じつは一部「たしかにそうだな…」と認めている感覚があるんです。
だけど、その場ではどうしてもそれを認められず、自分の主張の正しさを強調してしまうんです。
もうこれは反射的なものです。不思議なことに。
妻の言い分を認めてしまうと、僕は正しくなくなる。それを過剰に怖がっている自分がいます。
冷静に考えれば、別に、そうなっても、特に悪いことはおきません。
冷静に考えればそうなんですが、とっさの無意識に「自分のほうが正しいはずだ!」と主張してしまうんです。
もうこれは、心のふかーいところで、自分は「正しくない奴」になるなんて絶対にイヤだ、と思っているのです。
そうなることを、とても恐れているんです。
言い方を変えれば、これは、「正しくなくて、有能でなくて、ダメな自分」を、心から受け入れられていない。
つまり今風に言えば、自己肯定感が低い、っていうことなのかもしれない、と気づきました。
仕事での経験と同じ構造
そう自分で気づいたとき、正直、驚きました。
なぜなら、僕はこれまで自己肯定感が低いと思ったことはなかったからです。
でも、今回の洞察で、深ーいところでは自己肯定感が低い可能性に気づいてしまった。
そして、振り返ると、これ、仕事の時の自分と通ずるところがありました。
僕は仕事でも「できる奴・いいやつ」の仮面をかぶって、弱さを見せず、人に頼らず、苦手を隠していました。
それはそれは、仕事を抱え込みすぎてメンタルダウンし、1年半も休職する事態になるほどに。
夫婦関係で「正しさを認めてもらいたい」と思うのも、
仕事で「有能な自分を演じ続けた」のも、根っこは同じだと気づきました。
自分を守るために「正しさ」や「有能さ」にすがってきた。
夫婦関係と仕事。表面的には異なる問題が、じつはその根底で「自己肯定感」というところで繋がっていることに気づいてしまった…
あぁ。。。
これは僕にとって、結構大きな、人生レベルの課題なのだろうな、と思わされました。
自己受容への一歩
どういたらいいんだろう。
正直言うと、今でもまだよくわかりません。
けど、わからないなりに、こうすればいいのかも、という仮説はひとつもっています。
それは、「これまで自分がダメだと思っていたことを勇気をだしてやってみる」ということです。
これは、別記事でも書いた、心屋仁之助さんの本からの学びです。
僕は、心の根っこでは「正しくなくて、有能でなくて、ダメな自分には死ぬほどなりたくない」と思っています。
そうしてこれまで「デキる奴でなければならない」というマイルールを自分に課して生きてきたんです。
最初はきっと、そのマイルールは自分を守るためだったはずなんです。
かつて正しくないことで馬鹿にされたり、ダメだな~と言われ、自分の中で「正しくない=悪」という固定観念をつくりあげた。
そこから、正しくないことをする自分も受け入れてもらいたい、というホンネの気持ちを
マイルールによりフタをして、正しく、賢くなろうと努めた。
その結果、みんなに褒めてもらえた。マイルールで自分を守ることができた!
でも…。ここ最近の仕事や夫婦関係で、とうとう、そのマイルールで自分の首を絞めていることに気づけました。
ということは、これからは、そのマイルールを課す前の、本当の自分の本音:
- 本当は、嫌いなことはしたくない
- 本当は、自由にやりたいことだけやりたい
- 本当は、正しくないこともしたい
- 本当は、ラクしたいし怠けたい
それにフタをしないこと。
これまでは怠けるなんて、有能でなくなるなんて、絶対だめだと必死に頑張ってきました。
でも、そうしてきたことで、今ツラくなっている。
ということは、論理的に考えると、これからは恐れてきたことの”逆”を実践しないといけない、ということになります。
ということで、これがひとつ自己受容に繋がる方法、、、かもしれないと思っています。
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